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再開 (木, 01 8月 2024)
「パーキンソン」という病名を聞かされ早や三年、体重も35kgを割り、 激しいせん妄に悩まされ、生活の全てに助が必要となっている満88歳。 感染症による緊急入院から約3週間、退院に向けたカンファレンスから 週2回の訪問看護の手筈も無事整い、帰宅の運びとなる。   事業所はレスパイトを頼んだ療養病院が運営する看護ステーションとなった。 訪問サービスは、先ずはバイタルのチェック、そして、便通状況の確認から 排泄の対応、更に入浴の介助なども医療の一環として任せることができたが、 私は「簡単で良いから」とリハビリを頼んだ。   それを快く承諾してくれた看護スタッフはリハビリ科と連携をとり、ゆっくりと 簡単な手足の可動介助を始めることになった。そして、週二日の訪問日の一日を リハビリ科の理学療法士に任せる訪問リハに切り替えようとの話になっていった。   五月、満を持し、その訪問リハがスタートするのだが、それに派遣されてきたのは、 まだ医療学校を卒業したばかりの新人ではないのかという、うら若い娘さんだった。   訪問看護事業部は概ね、学校に通う子供を持つ位の中堅・ベテラン域のスタッフで 構成されている。看護であれ理学療法であれ、訪問ケアは監督者のいない各現場で 患者の安全に責任を負うべき立場。経験値は足りているのかとの懸念がよぎる程に、 訪れてきた女性理学療法士は若輩に見えた。  
   手技が始まり様子を見ていると、その手さばきは存外熟れていて、顔は私に向け、 淀みなく都度都度の説明を続けながら、手に伝わる感触だけで躰の状態を把握し、 ケアも途切れることなく進行していく。そして、その様子は男女の違いこそあれ、 あのリハビリデイのセンター長を思い起こさせた。    若く見えてはいるが、これは「10年選手」といったところか、もしかすると年齢も、 あのリハビリデイのセンター長だった輩と同じ位なのかもしれないし、同業として、 知り合い同士ということさえ有り得る…。    これまでの失敗が一気に蘇り、縁起でもない負の発想が次々と湧き上がってくる。 一方、当の母はそんな私を他所に、女同士ということも幸いしてか、ゆったりと この療法士に身を委ねている様だった。   私は彼女に年齢や実務年数を聞くかわりに、訪問を生業とするのなら、 介護でのデイサービスなどでも良かったのではないかと、聞いてみた。   それに対し、彼女は「介護保険でのリハビリで救われている人もいると思う、 でも、病院は先ず、医師が診断を行い、その医師の監督体制の下で自分達は 仕事をしている。介護保険によるデイサービスには医師が施設にいないので、 その指示系統が曖昧になる」そんな考えで、自分は病院勤務を選んでいると。   その言葉を聞き、私はもう余計な詮索をするのは止めることにした。 そして、母のリハビリの態勢が一年半ぶりに再会することとなった。       クローバーの花ひろがって明ける忌か  

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待機 (Sat, 01 Jun 2024)
「パーキンソン病の急性増悪、尿路感染症」ということで、昏睡状態となり 搬送された母。抗生剤投与の対処が中心で、約一か月間の入院が続くのだが、 ある時、病棟の看護師長が私のところにやって来て、退院後の生活について 方針を聞いてきた。   「退院後、施設への入所を選択肢に入れているのか」と師長は言うのである。 「パーキンソン」との診断から、この時点で母は約一年半、頼みの綱となる リハビリも頓挫したまま体力の衰えは目を覆わんばかり、加え、昏睡からの 覚醒直後とあって、案の定、再び強いせん妄に襲われている。    もし、適切な施設で、日毎のバイタル測定など体調管理に抜かりがなければ、 より速い段階で異変は感知され、これ程の大事にはなっていなかったのでは…。 そう言われると返す言葉もなく、この際は、自分一人での介護の抱え込みの 限界を先ずは認め、候補となる入所施設の検討に入るべきとの展開になった。   母は30代半ばまで国語科教員としての勤めがあったが、私達兄弟の出産後、 専業主婦となった。そのため、年金は共済と国民の二本立てとなっており、 同じく教員で定年まで勤め上げた父と比べ、役3分の2ほどの需給となる。   つまり「介護付きの有料老人ホーム」などは預金を切り崩しながらの入居を 迫られる分不相応な代物という話で、入居一時金が掛からず、入居者本人と 扶養者の負担力に応じ、月料金が7万から15万円程で済む公的施設である 「特別養護老人ホーム」を尋ねてみることに。   だが「特養ホーム」の現状とくれば、この時、待機登録者が全国で30万人程も 居るとされ、どこも順番待ちで溢れ空きはなく、こちらもほぼ門前払いの状況。   そうなってくると、他の予算に見合う民間の施設を見ていくしかなくなるが、 例えば「サービス付き高齢者向き住宅」などは自立生活を送れていることが、 入居前提となっている。並みの経済力で要介護度が高くなってきている者が 「特養ホーム」の待機組に回されてしまうと、もう後は何処か拾ってくれる 療養病院を探し出し、丸投げしてしまうしうくらいしか選択がないのである。   
  因みに現在、特養ホームは入所希望者と共にその利用率も低下傾向にあるらしい。 理由としては、人件費や光熱費高騰の影響で赤字経営の施設が増加している現状、 市場原理に晒される中、他の施設との競合が激化しているや施設で対応しきれず、 入院していく人が増えていることが要因なのだと。   つまりこれは、公の施設として要介護度の高い高齢者の受け入れとその供給体制は、 社会保障費の財源と一定の相関関係があるということで、予算配分が不十分なまま、 全国で未だ20万人超の待機者が有り続ける現状は変わっていないという話である。   現在、日本はかつては世界2位だったGDPも中国とドイツに抜かれ、4位に転落した。 少子高齢化も相まって社会保障関係費の増加が財政の負担になっているのだという。 政府の債務残高がかさみ、緊縮財政が続き、国民の負担率ばかりが高くなっていく。   戦後の復興から高度経済成長を「働き蜂」などと揶揄されながら、日本のGDP2位を 支えてきた父母のような昭和一桁から団塊世代、第一次ベビーブーム生まれの人達が 現役から退き、待っていたのは、何事も自己責任で、若い世代の足手まといのような 存在として放置される世の中だったということではないか。   母の体調管理について見落としない態勢を整えることを課題とされていた私は、 特養ホームを待機組に回されたことで、レスパイトも含めた療養病院への転院、 つまり、入院を続けるのかとうか、ということに選択が絞られていった。   懸念は、やはりせん妄のことだった。次々に医療スタッフが入れ替わったりすれば、 それでなくても救急搬送後に再燃しているせん妄が収集つかなくなるのではないか…。 結局、訪問看護を就け、在宅に帰る方向で私は看護師長に回答するが、そもそもの 師長の懸念は、その場合、私一人に介護負担が掛かり続けることにあるようだった。          暦日や梅押せば押すだけ沈む  

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見舞い (Mon, 01 Apr 2024)
父は白内障での入院中、多少の呆けもあったようだが、術後経過も良好で 退院後には、また一人で食材の買い出しに出掛けていくようになっていた。 白内障解決に伴い、視界も晴れ、足運びまでが何となく改善された印象で、 こちらの方は一安心といったところ。
  その父が母の救急搬送翌日、入院の準備を整え病院へ向かおうとする私を 待ち構えていたかのように「自分も病院へ連れて行け」とねじ込んできた。 長年連れ添う夫婦としては、至極当然のことであろうが、できれば父には 自重してもらいたい局面だった。   母は抗生剤投与の効果で症状は安定の兆しがある一方、未だ意識は 戻らないままで、私は緊急入院による諸々の後処理に追われる状況。 病状説明があるのか、入院の手続きに時間をとられるか、とにかく、 その日の段取りがどうなるか、病院に行ってみなければ分からない。   父と一緒となれば、その見守りまで私に負荷されることになるし、 何より、意識も会話もままならない状態の母を見舞ったところで、 どうせ、仕切り直しの憂き目を見るだけの話しとなる。   「母の見舞いは、目が醒めて話せるようになってからにした方が…」と、 言ってはみたものの、この状況について一人悶々と気を揉んでいた父に その聞き分けの余地など一切なく、結局、入院用具一式と父を積み込み、 搬送二日目、病院ひ向うことになった。   病室に入いり、母を確認するや抑えていた感情を吐き出すかのように父は オロオロと泣き出す有様。私がこれ程に取り乱した父の嗚咽を聞いたのは 過去に一度だけ、父の母、祖母が亡くなった時だった。葬儀から帰った夜、 母を相手にしたたか酔い「祖母が哀れだ」などと呻き、声をあげて泣いた。  
  祖母が亡くなったのは、私がまだ小学校に入学して間もなくの頃だったが、 大層厳格で私達家族全員にとって絶対的な存在だった父が、あられもなく 嗚咽する様子は、鮮明な記憶として残され続ける結果となった。   その数年後に祖父も他界するのだが、6人兄弟姉妹の上から三番目という父。 祖父母の扱いについて、他の兄弟達と余程に意見が合わなかったものとみえ、 祖父の死を機に、父は兄弟縁者との付き合いを一切断ってしまうことになる。   時は過ぎ、縁者達との復縁の兆しもなく、人との交流に繋がる趣味も持たず、 80歳を過ぎて以降の父の社会性は、母を窓口にした範囲で成立してきた訳で、 日々の話し相手は母くらいのもの。もし、父の娶った相手が母でなかったら、 今頃、父は独居老人と化し、完全に世間から隔絶されたていたに違いない。   そんな父を、時に愚痴を溢しながらも受け入れ続けてきた母が意識をなくし、 搬送され、その姿を見た父は人目も憚らず取り乱した。その後、母は何とか 覚醒するが「目が醒めて帰って来るなら、もういい」と言い、父は二度目の 見舞いに出向くことはなかった。   父との関わりについては、日毎進行する老人性難聴も要因となりながら、 意思疎通のすれ違いが常態化していて、その時々の経緯を相談しながら 行動を共にしていくことが難しくなっていく。それは病を得、不自由が 増す母の介護への負担よりも、私にとって大きなストレスとなっていた。           山塊の一枚となる春の闇  

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延命治療 (Thu, 01 Feb 2024)
パーキンソン病発症からおよそ3年、母も女性の平均寿命を超え、満87。 そして、感染症による緊急入院。そうなって次に聞かれることと言えば、 延命治療の可否について、となってくる。   今回の感染症入院での治療の選択について聞かれている訳ではない。 自発呼吸すら困難になったり、意識の回復も見込めなくなった場合、 酸素や栄養分の注入を人工的に続けてまで延命を希望するのか否か、 母本人とその確認は済んでいるのかと。    実は、延命治療は先のレスパイト入院でも聞かれていたし、この度の 緊急入院でも私は、その意思を未だ母から取れていないと理由をつけ、 「折を見て確かめておきます」と曖昧な返事しか返していない。   だが延命治療などは、たとえ我事の立場として問われたとしても、 それを「希望する」という選択は微塵ほどもなく、その価値観は 両親も同様のこととの認識を私は持っている。  
  リハビリ・デイの事業所選びが失敗に終わったことを皮切りに、 レスパイト入院もせん妄に見舞われ、心身の安定にも良かれと 取り入れてきたことが逆効果の連鎖にしかならなかった。故に 母は、こうなってしまうまでの二年間の殆どをベッドに縛られ 過ごしてきたこといなる。   「もう、私は足手まといにしかなっていない」母はそう言いながらも、 主催してきた俳句の会を完全に放置してしまっていることを気に掛け、 病を抱えながらも何とか体調を安定させ、仲間の待つ場所に戻りたい。 その思いだけで、どうにか持ちこたえていたのだが、積もりに積もる もどかしさを母自身が処理できなくなった時、母から溢れ出る怨念の 言葉を私は聞いていなければならない。   こんな負の連鎖が続く中、延命措置の是非を問われることになった。 それは母の終末云々というよりも、自分の選択してきたことに対し、 意味などなかったのだと、引導を渡されたかのような抵抗感があり 「延命治療は望みません」と即答することができなかったのだ。   更に言うと、実家での介護生活も丸二年超となり、いつの間にか 私自身が経済的な側面まで含め、諸々と両親に依存し始めていて、 その生活に終焉を告げられることへの無意識の拒絶というものが、 同時にあったことも認めなければならないのではと、今更ながら、 思い返しているところなのである…。   この度は、この様な悶々とした自問を繰り返しながらの構成となり、 筆を進めて行くことが中々に難儀な回想であった。          月光に小銭をこぼす焼芋屋  

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低気圧 (Fri, 01 Dec 2023)
元来、母にはパーキンソン以前からの懸案として、喘息の持病がある。
急激な気圧の変化に自律神経が対応できず、一旦発作が出てしまうと、
常備する気道拡張薬を服用しても数時間は発作との格闘を強いられる、
そもそもがそんな体質なのである。
 
その母も齢を重ね、発作時の躰への負担も増し、酸素吸入器の備えを
迫られていたところだったのだが、奇妙なことにパーキンソン発症を
言われ出した頃から、その発作が現れなくなってくる。
 
主治医にさえ訝しがられ、明快な理由が示されなかったこの現象だが、
母にすれば、終生悩まされ続けてきた喘息からの解放である。当初は
願ってもことと、ただ短絡的に捉えていたのだが、浮かれてばかりも
いられない要因があることに、早晩気付くことになる。
 
季節の変わり目から夏の夕立や台風の接近まで、空気を搔き混ぜながら
不吉な低気圧が接近してきて、発作を誘発するような要因が整ってくる。
そういう時に限り、パーキンソン処方薬の効能が、まるで効かなくなり、
躰の動きがビタリと止まってしまうのだ。
   
  平成27年2月初頭、その日も等圧線の刻みが細かい西高東低冬型の気圧。
一日中気温上がらず、母の反応も朝から鈍く、躰の動きも止まったまま。 となると、本来なら発作が襲来していたはずと理解する訳である。
 
それでも、躰が気圧に慣れるにつれ、体調も戻ってくるものなのだが、
この時は翌日になっても復調の気配なく、状態は悪化していくばかり、 食事も全く摂れず、発熱39度、心拍上昇、意識まで混濁し始めたかと 思うや、閉じた目蓋が完全に開かなくなってしまう有様。
 
もはや、気圧ばかりがこの変調の原因でないことは明らかだったが、
今更、町医者外来に並ぶなど悠長なことも言っておれず、またもや、
救急搬送を余儀なくされることに。
  低気圧のせいと安易に構えた挙句、転倒骨折に始まり三度目の救急搬送
「感染症には違いないが、インフルエンザではない」とされ、緊急入院、 抗生剤と点滴での処置が続き、母が覚醒するのは搬送日から丸二日の後、 最終的には「パーキンソン病の急性増悪、尿路感染症」との診断結果に。 そして、その入院はほぼ一か月間も続いてしまう。  
落ち着いた二週間のレスパイト入院ですら、母にはせん妄の症状が出た。
誰よりもそれを不安がっていたのは母自身だった。認知機能については
異常ないとされながら、句会に戻れない状況がもう二年近く続いている。

レスパイト退院からひと月余り、ようやく日付け感覚が修正されてきたと
安堵していた矢先だった。そこに、二日間の昏睡を強いられた挙句の入院。
何もかもが、また振り出しに戻されることの避けられない事態であった。  
       跨ぎしは二月の樹影母の形
 

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せん妄 (Sun, 01 Oct 2023)
 「せん妄」とは環境や体調の急変を機に突発的に現れる意識の混乱のことで、 特に高齢の入院患者によく観られる症状だという。   自宅で介護する家族の負担軽減のため健康保険を用い、期限付きで療養病院に 入院するレスパイト入院。先ずは母を 11月末から約二週間レスパイトで預け、 その期間中に父の白内障手術を片付けてしまおうという運び。母のレスパイト、 リハビリ科を備えた療養病院で、頓挫していたそのリハビリも日程に組まれる。   家族の負担軽減としてのレスパイトとはいえ、着替えやタオルの洗濯物管理は 家族の役割とされ、取り換えのため一日置きには病院に通わなければならない。 入院の事前説明を聞かされている時は正確に予定を理解していた母であったが、 面会の度に私は「何時までここに居るの?」と母から問い直されてしまう。   母が聞く「何時」とは自分が家に帰るための時間のことで、私が迎えに来たと 錯覚を起こしてしまっているのだ。何の問題もなく理解できていたはずだった。 だが、入院のスケジュールはその入院を起点に母の意識からすっぽり抜け落ち、 何度説明し直しても日が変わると、また同じ問答が繰り返されることになる。   一方、父は入院直後も状況把握に問題が出ている様子もなく、治療経過も理解し、 聞き分け良く順調な入院生活を送れているようだった。そして私が顔を見せると、 ベッドに寝ていてもむくり躰を起こし、大声で話せるはずもない病室で補聴器も つけず、母や家の様子を尋ねてみたり、あれこれと話し掛けてくる。  
  ある時などは、何の気紛れか「エレベーターまで送ってやろう」と帰り支度を整え、 病室を出る私の後を着いて来ようとすることがあった。地元拠点の急性期総合病院、 病棟の部屋数も多く道順も入り組んでいる。エレベーターまで一は緒に来るとして、 その後、迷わず部屋まで一人で戻れるのか「余計な気は遣わなくいいから」と私は いなすのだが「馬鹿にするな」と言わんばかり、結局は自信満々の父に押し切られ、 病棟の廊下を一緒に歩くこととなった。   少々道順が入り組んでいるとはいえ普通に歩けば 1分掛かるかどうか、その距離を 父は両手を背中の後ろに組み、靴のサイズ程の僅かな歩幅で実に慎重に、一歩一歩、 ここは会話もなく進む。   看護ステーションで父の帰りの見守りをそれとなく頼み、途中の階でいちいち 止まるエレベーターを父と並んで待ち、ようようこれで解放されると思いきや、 気付けば、開いたエレベーターに父も一緒に乗り込んできており、相変わらず 私の横に突っ立っているではないか。   「どこまで着いて来るつもりだ?」と私、それに対し、狐につままれたような 表情を見せる父。辺りを観回し、少し考え「ああ、そうだった」と笑いながら エレベーターを降りた。父のその先には、もう、看護師が待機してくれている。   それまで気付かずにいただけで、父にも母同様の症状が出ていたとするのなら、 ここは私もエレベーターを降り、状態を確かめねば、と一瞬は思ったが、結局、 待機する看護師に一礼だけし、その日はそのまま退散させてもらうことにした。   母のせん妄については、元より認知症の発症がある訳でもなく、以前の生活に 戻れば、次第に症状は落ち着いてくるものと病院から聞かされてはいたのだが、 退院後も簡単な計算や日付、数字への理解だけができない状態が続いてしまう。   年も押し迫りかけた師走の退院「15日の退院から一週間、今日は何日?」 母はその程度の質問にも答えられないまま、新年を迎えることになった。          南縁に紙たゝむ母 お正月  

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同時入院 (Tue, 01 Aug 2023)
元より父は、母が介護認定を受けた時点で既に相当程度難聴が進行していて、
その時の母のケアマネージャーの手配で要支援2の認定を受けることになる。
だが、手足の不自由はなく「躰は動かせているから」と、日々の買い物から
炊事・洗濯まで制度に頼ることなく自立生活を成り立たせていた。
 
だが、今回の白内障入院にとりかかる一年程前にも「救急搬送された」と 緊急連絡を受ける騒動があった。母のリハビリデイセンター通所が頓挫し、 私がその事後交渉に翻弄され始め出した丁度そんな局面、交通事故である。
 
信号のない三差路の横断歩道上での営業中の乗用車との接触事故だった。
車は低速だったが接触の弾みで父はボンネット上に倒れ込み、そのまま
路上に滑り落ち卒倒し、鎖骨にひびが入る全治三か月程の怪我を負った。
 
車の運転手は全面的に過失を認め、示談交渉も滞りなく完了したものの、
現場検証の警官からは老人の危険回避能力の衰えや外出時の付き添いの
必要性など、逆にこちらが何かと苦言を賜る羽目となった。
 
そこで、先ずは買い物代行ヘルパーの活用を始めてみようという話になる。
さすがにこの期に及んでは、人嫌いを極めた父も足腰の衰え防止のためと、
任せきりにせず一緒に出掛け、荷物だけを持ってもらうなど聞き分け良く、
暫くはヘルパーを受け入れくれていたのだが…。
 
左腕を固定していた三角巾が取れるとリハビリが始まる。きちんと通えば
それだけ保証金も出るし、全身の機能回復にも良い効果となるはずだった。
 
だが、他の誰かのスケジュールに合わせ行動することで、自分の決めた
生活時間が守れなくなることをとにかく嫌う父は、左腕を庇いながらも
買い物の荷物を持つコツなど掴むや否や、せっかく手配したヘルパーも
いつの間にか勝手に断ってしまい、リハビリにも通わなくなってしまう。
 
  耳が遠くなって近付いてくる車があっても、その音を感知しての危険察知は もはや叶わないのだ。にも拘わらずリハビリも中途半端なまま、また一人で フラフラと出掛け、同じ失敗を繰り返されていては、たまったものではない。  
「せめて、ヘルパーだけは続けろ」と散々、説得を繰り返すことになった。
結局「今後一切、信号のない横断歩道は渡らない」と押し切られてしまう。
警察からの緊急連絡、病院への駆け付け、示談交渉、ヘルパーの手配等々、
私にとっては、ただ徒労感だけが残る騒動だった。
 
そんな父の眼科入院。この時、私は母の介助を一人で抱え込んでしまっている。
デイセンターでのトラブル仲介の件で、母担当のケアマネージャーとの関係に
隙間ができていることも一因だ。
 
一週間程度とはいえ、未だベッドから出ることさえ介助の要る母を一人家に残し、
父の「通訳」も兼ね、病院を行き来しなければならない。気の重さしかなかった。
この際は、ケアマネージャーへのわだかまりを一先ず割り切り、相談してみると、
今回はケアマネージャーの側から母のレスパイト入院を提案されることになった。         反抗期その父に置くシクラメン  

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記憶 (Thu, 01 Jun 2023)
クリニックの日帰り手術でも治療が完結する白内障。誰もに起こる老化現象だが、 放置は禁物で、進行すると炎症がこじれ緊急手術の危険まで出てくるということ。   母とは異なり、父は自由に動けるのだから眼科くらいは自分で行けばよいものを、 手をこまねいているのは、ひとえに難聴の進行から、特に初対面の人との会話が 億劫になっていることに尽きる。補聴器を付けていても必ずどこかで聞き取りに エラーが出て間合いがずれてしまうのだ。   クリニックの通院といえど初診の受付から医師との問答、いつの間にか障壁が 高くなってしまい、又、険悪な息子に自分から折れ、助けを求める訳もいかず、 かと言って、役所に依頼し、付き添い介護を手配する機転などきくはずもない。 聴力ばかりか視力までもおぼつかなっていく不安を唯一の話し相手である母に 愚痴るしかなかった、そんな愚かとも哀れともつかぬ話である。   神棚蝋燭の撤去騒動から、もう数か月経っていたか、私は一方的に日取りを決め 「この日、一緒に眼科に行く、準備しておくように」と予定のメモを父に渡すと 「分かった」と父は素直に応じ、父との冷却期間がここで終了することになった。   元々、母には軽い緑内障があり、通っていたクリニックに父も連れて行くことにした。 人当たりの良い医者で意思疎通に関しても敷居が低く、父も馴染みやすいはずである。 クリニックは電車で一駅、駅からも近くの好立地であったが、その分、駐車場からは 少々不便で、母の場合は車椅子を押し、父には一緒に歩いてもらうことになる。  
  平成26年10月、満86歳となった父との久々の外出となるが、そこで私は改め、 耳や目ばかりでなく、予想以上の父の脚力の衰えに戸惑いを覚えることになる。 家で見ている時は気付かなかったのだが、街中を歩く父は、まるで酔っ払いの 千鳥足のような足運びをしており、全く歩調が合わないのだ。   そこで、こちらも落とせる限りの速度を落とし、歩みを合わせようとはするものの、 それも中々に難しいもので、少しでも油断するとあっという間に差が開いてしまい、 ゆらゆらと追い付いてくる父をいちいち待たなければならない。   そんな光景を見せられていたためか、私に思いもかけない記憶が蘇ってくる。 ようやく歩き始めた幼少の私が父に連れられ、最寄り駅まで行く道すがらの 一場面で、私は父の歩調に着いて行けずに立ち止まり、へたり込んでしまう。 すると父も立ち止まり、私が立ち上がり歩き始めるのを見守り、待っている。   今、立場が完全に入れ替わり、私が周囲の安全と父の歩みを見守っている。 人混みを縫い、彷徨う流人の如く私の後を追い、老いには抗えない人間の 切なさを散々見せつけながら、ようやく受け取った診断は、やはり白内障。 高齢を理由に日帰り手術とはいかず、総合病院眼科への紹介状が出された。 一週間程度の入院が前提だとのこと。   この日も、未だ介助を必要としている母を一人、家に残してきている。 入院となると、クリニック通院の何倍もの手間を割かれるに違いない。 86歳父母両方の介助を担っていく、その起点となる日の出来事だった。         やすやすと踏まれ秋意の影法師  

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信仰 (Sat, 01 Apr 2023)
同じ昭和2年11月と12月生の両親は、平成23年時、満83歳。 母、平成23年2月、転倒左大腿部骨折、杖歩行状態、要支援判定1。 平成24年、診断パーキンソン症候群。同年12月、右大腿部肉離れ。 平成25年7月、正式診断指定難病パーキンソン病。要介護判定3。 同年9月、肉離れ部位状態再悪化、以後約1年間歩行困難状態継続。   転倒骨折で杖歩行状態となった母にパーキンソン病の診断が下され要介護判定3に、 更に右足の肉離れなども続いてしまう。そうなると、老人性難聴の進行した父では 母の介助は務まらす、経年、両親と居を別にしてきた私が実家に戻ることになった。   そんな有様の一端を 「老老夫婦」「父の生活~」 でも記してきたが、父に関しては、 他にも母から持ち掛けられていた相談事があった。それまでは精を出し般若心経を 詠んでいたはずの父がこの頃、どんな心境の変化か神道に傾倒。自室に持ち込んだ 神棚を前に朝な夕な詔を唱えるようになっていた。   そんな父を尻目に、天台宗の旧家を実家に持つ母などは「私は般若心経がしっくりくる」と 冷ややかだったし、今更父も家族を巻き込んだりもせず、心安らかに日々を過ごせるのなら、 こちらとしても特に取り立て何も言うこともない。が、問題は神棚に灯される蝋燭。これが 何とも危なっかしいと母は言うのだ。   何せ父は、すぐ横で鳴る電話の着信にさえ気づけない程、難聴が進行している。 にも拘らず、詔を唱える際は、必ず真っ新な小さな蝋燭が神棚に二本灯される。 そして、詔終了後もそれは消されず、完全に燃え尽きるまで放置されてしまう。   
  家内安全から無病息災、強いては母の怪奇まで心願成就達成のためには燃え残り蝋燭の 再利用など、だらしない信心であってはならないということか。そのため、一度灯した 蝋燭は必ず最後まで燃やし切り、次の詔の備えるという手筈が定着してしまったようだ。   身体の自由が効かなくなっている母がそんな火の元を危惧し、父に蝋燭だけは止めるよう 訴えるのだが、父からは「きちんと見てる心配ない」と、いなされ危機感が共有されない。 そこで母は、私からも父に因果を含めるよう言い始め、放置できない状況となっていた。   「危険だ」「心配ない」そんな問答を父と繰り返し、もはや折り合えることはないと 悟った私は、父の自室にある蝋燭・燭台・ライター等の火器類の一切を父の自室から 無断撤去することになる。当然、父は猛反発し直ぐに代用を取り揃えるが私も負けず、 父の不在を狙っては撤去を繰り返した。   そうして私は父に蝋燭を諦めさせるのだが、以来、父は心底から私を嫌悪するようになり、 口すらもきかなくなってしまう。加え、朝夕に聞こえていた詔の声までが、どうした訳か 途切れがちとなり、馬鹿馬鹿しくも気まずい父子の家庭内断絶が、ただ常態化していった。   更に、面倒は重なるもので「お父さんは最近は目も見えにくくなってきているようだ」などと、 また母から聞かされてしまう。視界に白い霧が掛かった感じだそうで、白内障ではないのかと。 眼科に行くよう言っても「もう齢だから仕方ない」と投げやりな返事しか返さないと言うのだ。   そういうことになると放っておくこともできず、正面から見ることを避けていた父の顔を 改めて覗き込んでみると確かにその瞳はどんより濁み、これは白内障で間違いなかろうと。 一体どのくらい放置してきたのか。いずれにしても、症状はかなり進んでいるようだった。         父の日の父怺へつつ七味振る  

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履歴 (Fri, 01 Jan 2021)
昭和2年生まれ、農家7人兄弟姉妹の真ん中、上からも下からも4番目。幼い弟妹の子守に 手を取られながら『こんな自分でもこれなら続けていけるかも』と女学校(中学生)の頃に 試してみたのが俳句だったのだと。そして農家ではないが、これまた6人兄弟姉妹の3番目 公務員の父と結婚。互いの親からの支援も乏しく、アパート一間の新婚生活が始まることに。   家事に子育てにと「俳句~」どころではない時代も経て、それでも愚直に執拗に関わり続け、 もはや「終生の生業」というべきか、冊子を発行したり、ささやかながら句会を主催したり、 この翌年になれば、遂に米寿を迎えるところまできたのである。そんな母が右腿痛再発以来、 丸1年、句会はおろか作句自体頓挫していた状況で「さくらさくら~」は久方ぶりに閃いた 一句jとなった。   「多くの人が読んでくれると~」などと母から担がれ「うん」と合わせはしたが、 これから始めるブログ、デイセンターの体験利用以降は苦情申し立ての経緯から 制度への理解や自身の行動分析など、辛気臭い話題も取り上げていくことになる。 それだけに、これからも各項の心象に合う一句を添える形を作っていけるのなら、 雰囲気に幅を持たせることができるし、何よりすっかり創作から遠ざかっている 母にとっても良い刺激になるのではないかと…。  
  そこで同様に2項目「要介護認定」もそそくさ原稿を渡し、待ってはみたのだが、 「こうもベッドに縛られている身では、そんな都合よくイメージは湧いてこない」 「俳句を載せたいのなら私の自選集から選べばいい、好きなのを使っていいから」という。   母が趣味にしているとはいえ、これまでは暇な年寄りの遊興のひとつ、位としか考えず、 琴線に触れることなどなかった俳句だった。だが、こんな経緯でブログ一項仕上げる度、 母の自選集をいちいち一から読み直し、心象に添う一句を探し続けることになった。   選んだ俳句の中には現在の私よりも、まだ更に若い年代に詠まれたものも少なくないが、 何とも奇妙な感覚をだった。それらはあたかも、その時代の母がこの先の自分の人生で、 このような境遇が待っていることを潜在的に予感し、俳句に投影させていたかのような…、 そしてそれらが、この目に留まり、記事の最後に添えられるのをまっていたかのような…。   そんな「手前味噌な錯覚」が、袋小路に陥っていた私の意識を徐々にではあるが 解放に向かわせ、このブログ投稿へと移行させていくことになるにはなるのだが…。 社会人となって以降、職務日報を記す程度が席の山だった私は、一文・一段落を まとめるに逐一推敲を重ねる必要に迫られた。   つまるところ、俳句にしても作文も私の浅学ぶりが如何ほどか、という話であって、 加え、LINE交換からSNSまで ネット上の私の機動力は愚鈍極まりないものがある。 『これはこれで別のストレスになってくるのか…』そんな思いを交錯させながらも、 10日毎の投稿を自らのノルマと課し、ひたすら筆記することに意識を没頭させる。 暫くは、そんな日々が続くことになった。         父母の青田へクラクション一つ  

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転換 (Sun, 01 Nov 2020)
昼間から酩酊し、母に手を上げてしまったことでウィスキー断ちの決心をしたのだが、 夜中に目覚める度、襲われ続けている得体の知れない不安感や恐怖心までも、それで 解消された訳ではない。   母の肉離れを機に、離職し、介護漬けの生活がもう一年半以上も続いているのだから 「不安」の由来はそこにあるのだろうが、毎夜毎夜こうも決まって、恐怖心まで伴い 苛まれ続けているとなると、単純に「介護疲れ」という話では済まなくなってくる。   やはり、デイセンターに対する憤懣やる方ない思い、それを収められずにいるのだが、 結局それも、為す術なく翻弄されてきた己自身の不甲斐なさに向けられることになり、 忌々しさは一入となる。更に厄介なのは、これまでに繰り返されてきた交渉の局面が 不規則に蘇ってきて、意識は常に、憤りと後悔に支配され続ける状態にある。   負のスパイラルに陥り、迷走する意識を「リセット」する必要があった。 人はその時々において、なぜそう言い、そうしたか、また出来なかったか、 個々の性格や状況的要因が絡み、一つ一つの行動にはその理由があるはず。   
  デイセンターへの対応に行き詰まり、その突破口を探し、様々なサイトを閲覧してきた。 必然と、介護や医療がテーマのブログの存在を数多く知ることとなった。私自身もまた、 デイセンターとの関わりだけでなく、母が介護認定を受ける起点となる転倒骨折からの 出来事を時系列に洗い出し、意識を「整頓」する。そのための回想ブログを立ち上げる。   当然、特定の個人や団体も表記の対象となるので、匿名性の担保だけは必須となるが、 そのブログの継続により、これまで弁護士への法律相談として以外、誰からも親身に 取り合ってもらえなかった私達の実情を、誰かに知ってもらうことができるとしたら、 もう、それで何も言うことはないのではないか…。   そのような想いで初回投稿「転倒骨折」の原稿をまとめ、打ち出し、それを母に見せ、 ・デイセンターとの交渉は接触手段が一切断たれてしまい、八方ふさがりにあること。 ・よって、賠償交渉は「敗北」の結果をもって、訴えを続けること自体終了すること。 ・それら経緯を含め、介護認定を受けて以降の事柄がテーマのブログを開設すること。 以上の現状と方針を告げ、改めて「暴力」についての詫びを入れた。   すると母は「やることが見つかったんだね、多くの人が読んでくれるものになるといいね」 そんなふうに言い、原稿を読み終えると「さくらさくらと てんとう虫が 目を醒ます」と 即興で一句ひねり出し「こんなのはどうかな?」と本当に久しぶりに少し笑った。         奥の間に盆灯篭が起きて居た  

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離脱 (Fri, 21 Aug 2020)
作業が一段落したのは父が夕食を済ませ、夏の陽も西に傾きかけた頃だったか。 日没が近づき、幸いにも母の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻してはいくのだが、 私がそのことを確認したのは完全に衣類の整頓を終えてからのことで、たとえ、 不測の事態に陥っていたとしても気付かない程、私はただ作業にのめり込んだ。   そして、このタチの悪い酔い醒めの後に待っているのは、これでもかという程の自己嫌悪。 法律相談の際に弁護士から言われたことを思い出していた。内容証明で己の主張を相手に 送り付けるなどというのは「お前達と(社会的に)喧嘩をするぞ」と宣言するようなもの。 「交渉」や「係争」ではなく「喧嘩」という言葉を敢えて私に聞かせたその意味を…。   「勝てば官軍」その時こそ全ての手段が正当化され、意気揚々と闊歩していけば良い。 だが、仮にも「負ければ賊軍」相手の高笑いを尻目に、惨めさと更なる遺恨の呪縛に 喘ぐこととなり…。   「望むところ」と気色ばんだが、ものの見事に手も足も出せない状況に落とし込まれ、 ぐうの音も出ない。弁護士から言わせれば、端から「負ける喧嘩」ということだった。 そして実際、言われた通りの結果となり、その手っ取り早い八つ当たりの標的として、 あろうことか全く抵抗する術を持たない瀕死の母を餌食にしてしまったというオチだ。  
  この時期私は、ウィスキー2・7ℓと発泡酒350mℓ24缶を一週間足らずの間隔で 消費している。そもそも、これ程の飲酒を常習化させたのは昼夜の区別ない介護生活で
不規則になってしまった睡眠リズムと精神の安定を手っ取り早く修正するためであった。   だが、体内のアルコール濃度が下がってくると、その依存度合により、手や全身の震え、 寝汗、不眠、吐き気、嘔吐、血圧上昇、不整脈、幻覚、幻聴などが「離脱症状」として 表れるのがアルコール依存症というもの。アルコールでやり過ごそうとしていた症状が そのアルコールで、より、こじれていったと観念せざるを得ない事態であった。   今の自分はアルコールに支配され、制御不能、身動きすら取れなくなっている。 このままでいけば今のメリハリのない生活の中、感情も理性も酒に呑み込まれ、 世間そのものからも押し流されていく。そして正に今、そうならんとしており、 それこそが「奴等」の思う壺ということではないか…。   そんな経緯で、ようやく断酒の決意を固めることになったはいいが、ウィスキーとくれば、 専ら炭酸割りを好んだ私は、アルコールのみならず<炭酸渇望>にまで悶えることとなり…。 そして、スーパーのビールの陳列、視野に入るや否や、当初の決意どこ吹く風、アッサリ 挫折の憂き目を見る羽目となった。   断酒を決意しようが、どんな性根を入れ替えようが日々炊事場に立ち、スーパーに通う 日課が続くことに何ら変わりない。厳格すぎる目標は却って腰砕けの結果を招くだけと、 夕方6時以降の発泡酒に限り、飲酒制限は適用しないことにした。   舌と喉が炭酸の清涼感を求めてくれば、間髪入れずノンアルコールビールを流し込み、 胃袋がアルコールの刺激を欲すれば、即席ラーメンなど、唐辛子をたっぷり効かせた <代替品>でその感覚を麻痺させる。うらぶれ五十路男のそんな<脱ウィスキー>に
向けた苦闘は続いていくのであった。          守護神に睨まれてきて生ビール  

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発散 (Mon, 01 Jun 2020)
屋根瓦が真夏の直射日光に焼かれ、エアコンの室外機が唸りを上げ出し、母が息苦しさを 訴え始める少し前の時間帯。食材の調達など外出の要件を午前中に済ませてしまうと私は 炭酸割のウィスキーのグラスを片手に炊事場に立ち、フリーズドライの味噌汁に合うよう、 手際も悪く出汁巻き卵を焼いてみたり、塩鮭の切り身を炙ってみたり、その時々の 母の希望により、白米を粥に替えたりしながら朝・昼兼用の食事作りに取り掛かる。   ベッドの縁に腰掛け、丁度、配膳が乗るサイズの椅子をテーブル替わりに、病院食よりも やや少なめの変わり映えしない献立をなんとか食べ終わると、再び母はベッドに横たわり、 午後からの灼熱攻撃に備える。上背150㎝の母の足元には丁度、人ひとりが座れる位の スペースができ、母が自分でみぞおちの辺りを押さえ始めると、私はそこに胡坐で鎮座し、 干からびたその足を摩りにかかるのだが…。   その日、母は「書き遺したいことがあるから、机の引き出しから便箋を取って欲しい」 そんなことをベッドの座り込む私に向け言い始めた。足摩りを中断させられることが 煩わしかったし「書き遺す」などと縁起でもない発想を私は反射的に拒絶したのだが、 「三段重の引き出し、便箋は中段に入れてあるから、お願い」と母も引き下がらない。   仕方なく開けてみると、何かの冊子やチラシなどが雑然と詰め込んではあるが、解らない。 そこで、上下段も含め「ガサガサ」と紙類をかき分け探しはするも、便箋など見当たらず、 何が何だか見当もつかない。  
  本来、整理整頓が決して得意とはいえない母の収納、引き出しそれぞれの使い分け自体、 いきなり他人が覗き込んだところで判別がつくような状態ではない。馬鹿馬鹿しくなり、 「元気になって自分でやってくれ」と放棄するも「あるはずだから真面目に探して」と、 この日の母は引き下がらない。   「こんなこと、何でもないでしょう」「嫌だ、関わらない」そんな応酬が繰り返されたのは、 何杯目のグラスが空いた頃だったか。気怠い暑さと締まらない酔いにまかせ、私の堪忍袋が ここで切れることになる。   「うるさい、いい加減な記憶で人に指図するな!」 「一体、この引き出しの何処に便箋なんかある?」 引き出しの収納をひっくり返され、当たり散らされた母は、 「訳が分からなくなる、止めて」と苦しい息で振り絞るが、 「これから整理し直してやるから、黙って見てろ」 と、結局は私から一蹴されてしまう羽目となった。   私には妙な整理整頓癖がある。普段から几帳面に片付けを習慣にするという訳ではないが、 仕事であれ雑事であれ、頭が混乱する程に次々と物事が立て込んでくる時がある。すると、 日頃から意識の片隅では気に留めつつも面倒臭さにかまけ、手付かずのままになっている 「放置物」の整理を、先ずは何をおいてより先に完了してしまわずにおれなくなるという、 まあ、ありがちな話ではあるが、何としたことか…、それがここで頭をもたげてきた。   これまで、母の収納について見て見ぬふりをしてきたのは、便箋などの小物類よりも以前に 着替え介助の度に「あれでもない、これでもない」と、いちいち煩わされる衣服全般がある。 私は母の衣装ケースや洋服ダンスから、視界に入った衣類を手当たり次第に引っ張り出すと、 「もう着ないものは捨てるからな」と、憑りつかれたように作業にかかった。   さすがにこうなってくると、ただ静観してもいられない母から「ちょっといい加減に…」と 発せられるやいなや、私は母の胸ぐらを鷲掴みに平手で頬を打ち「うるさい、黙ってろ」と 一切の発言を禁じると、母もそこからは空疎見詰め、時折、何か呟きを漏らしらりはしたが、 もはや、私に話しかけることはしなくなった。   「この息もういい…、止まって、おばあちゃん迎えに来て…」 母の漏らす呟きは、このようなものだったか… だが、この時の私は、それにさえ事ともせず、 青色吐息の母を尻目に作業に没頭していった。        花種を蒔き あっけなき死を願う  

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蓄積 (Sat, 01 Jun 2019)
朝昼晩の三度の適切な食事摂取と一定の運動量の維持が、就寝と起床時間を規則正しく導き、 人としての機能を維持し続ける。そのリズムを止められてしまった齢86歳の母は、誰かに 足を摩り上げてもらうことを日課にしなければ、降りた血液を自力で心臓に戻せないまでに 衰弱が進行している。介助を担う側の人間は、自分の心身まで消耗しきってしまわないよう、 その制御法を心得ておくことも必要となってくるのだが…。   脚力が衰え、自力移動が困難となった時点から介護用紙オムツを常用している母ではあるが、 排便にそれを使用することはなく、介助要請が入る。排尿においても紙オムツが役立つのは 就寝し無意識に排出する時だけで、一旦、尿意を意識してしまうと、着衣のままでは用など 足せないと母は言うのだ。   その局面に備え、私は母の隣室で寝起きするのだが、正に今、自分も寝入ったという頃合に 名前を呼ばれることもあり、そんな時は、口から心臓が飛び出るかと思うほどに「ワッ」と 驚いて飛び起きる。別に危険が迫っている訳でもないと知っているはずなのに、バクバクと 心臓が音を立てて鳴り始め、その鼓動を治めるのに暫しうつ伏せ、呼吸を整えねばならない。 そうしてよたよた、介助を済ませ無事に母を眠りに戻せても、一度、吹き飛んだ私の眠気は そう簡単には呼び戻せない。         そのような事を繰り返すうち、誰かに起こされることがなくても私は、2・3時間程も眠れば 自然と目を覚ましてしまう体質となっていく。足りない睡眠は昼間の仮眠で補うことになるが、 夜中の目覚め、これがどうにもタチの悪いことになっていた。夜の闇がその引き金を引くのか、 ここでもやはり、心拍が高まり思わず嗚咽してしまう程に、みぞおちの奥底までもが重苦しい。 悪夢だったというのならまだしも、夢を見ていたのか、それすらも憶えていないのに、圧倒的な 不安と孤独に支配されている。  
  一体、何がそんなに不安で怖いのか…。職を離れ一年半超、先の見えない生活への不安か。 卒なく対応せねばならないと、気を張り続けきたデイセンターとの応酬、そのストレスか。 暗闇の中、一人うずくまり意識を整えようとはするが、どうにもやりきれず、そんな時は、 吸い寄せられるように冷蔵庫まで辿り着くと、グラスに氷を放り込み、安物ウィスキーを 炭酸で割って一気に胃袋に流し込む。   とにかく、この訳のわからない呪縛から逃れることが急務である。この場合、ウィスキーに 勝る<特効薬>は他に見当たらない。杯を重ねるほど、意識と身体は浮遊感に包まれてゆき、 鈍く突き上げていた鼓動も静まり始める。観るでもない音声を落とした深夜のテレビを肴に、 酔いに身を任せてみると、思考回路はシラフでいる時よりも却って冷静に状況の分析を始め、 さしあたり、特に何かに怯える必要がある訳ではないと、私は平静を取り戻してゆく。    こんな時もやはり私は、デイセンターへの対応について止め処もなく考え始めてしまうのだ。 『最後は裁判で決着を…』そんな思いも、法律相談で弁護士が見せた展望の持てなさそうな 冷めた反応を思い返すと、己の見通しの甘さ詰めの甘さ、その恥ずかしさばかりが去来する。   紆余曲折を辿った交渉、各々の局面で何がしかの後悔や反省がある。その場面場面を想い起し 「見落としていたことは何だったのか、今からでも突破口を開く材料はないか」と抑うつ的な はんすうのループが始まり、記録物を見直したり、当てどないネット検索の闇に陥っていくが、 既に万策も尽き果てているようで、新たな方策や手段に辿り着くことは、もうない。   次にするべき事が定まらない、それが今までとは違う。思えば、僅かな可能性しかないと 承知の上の手段ばかりではあったが、それに一縷の望みを託すことができていたのならば、 それが介護に明け暮れる先の見えない生活の、その先を進む燈火であったのかもしれない、 そんな風に思ったりもする。    2・7ℓのペットボトルで買い込んだウィスキーとケース24缶350mℓの発泡酒。 それが一週間ともたないまでに酒量が増し続け『自分はアルコールの依存状態にある』 そうはっきりと自覚する事態であった。母の呼吸を絶え絶えにする酷暑の中、息を潜め 秋の訪れを待つ。この時の私達には唯一それだけが、この状況をやり過ごす手段だった。          カワハギの優しい顔をもう一度  

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考察 (Mon, 01 Apr 2019)
母の利用した介護サービスのトラブルで、その母の代理として苦情の申し立てや 事後交渉に翻弄された経緯をこれまで記してきた訳だが、今回は、現行の制度が 要介護者本人やその代理人に「契約」を求める有様について、今、思うところを まとめてみたいと思う。   契約書には、苦情対応の在り方や、その先の相談窓口の宛先、訴訟を起こす場合の 管轄裁判所など細々とした記載がある。それに署名・捺印し「契約」を交わすとは、 止むを得ず申し立てる苦情も、それで埒が明かない場合の各窓口への相談も裁判も、 「その業者との関係は基本的に全て自己責任で完結させます」そう了解したという ことになってしまう。   国(政治)は皆保険としての保険料納付の義務を国民に課す以上、逆に要介護認定を 受けた人達に対して、確実な介護体制を整える義務を負うことになるのではないのか。   だが役所側は、事業認可を求めてくる者達が本当に利用者の安全を疎かにしない 誠実な事業所なのかどう、綿密な審査を経た上で認可を与えている訳ではない。 その一方、行政が一定の割合での粗悪業者紛れ込みを想定していないはずもなく、 だからこそ、利用者の安全を担保するのに、誠実な苦情対応の履行や相談窓口の 内容を入れ込んだ「契約」を交わせ、という話になってくる。   そして実際に、その業者が交わした契約事項を誠実に履行しない組織だったとなれば、 利用者は指定の相談窓口に実情を訴え、場合によっては事後交渉のサポートや仲介を 求めることにもなる。   だが、相談員の対応とくれば、業者に「誠実な対応を」と口添えする程度で、 最終的には「話し合いは当事者同士で…」などとの自己責任論を持ち出され、 それ以上の支援は期待できないことを私は自身で体験した。  
  老後、自分の代理人がどこまで親身に寄り添ってくれるかは、人により事情は様々。 形ばかりの代理人しか望めない人が、如何にぞんざいに扱われることになろうとも、 もはや、それ自体が自己責任という話で片付けられてしまうことになるのだ。   そのような状況も鑑み、私は兼ねてより、ケアマネージャーこそが介護サービスでの 利用者から苦情や不満が出た場合、その代弁や後見役を担うべき役割、と考えていた。 だが近年、そのケアマネージャーも成り手の不足に陥っている現実があるのだという。 平成30年より、その質を向上を目的に受験資格が厳格化されたこと。更には、多忙な 業務量に対しての報酬が見合っていない業種として敬遠されているらしい。  
質向上や待遇改善は志を持つケアマネージャーの中からも上がってはいるようだが、 現状、一人のケアマネージャーの受け持ち人数の上限は「居宅ケアマネ」で35人。 老人ホームなど所属の「施設ケアマネ」では100人まで、とされといるということ。   ケアマネージャーなる所業、地域包括ケアシステム下にあっての「事業者」として、 これ程の担当人数を抱えなければ成り立たない建て付けのまま、少々の待遇改善が 実現したとて、一体どこまでの質向上を期待できるものなのだろうか。   「不要論」さえ囁かれるケアマネージャーも実のところ、我々利用者にとっては 契約を必要とされるサービス提供業者と同じ介護事業者であることに違いはない。 ケアマネージャーとサービス提供業者、互いに効率良く業務を処理していくため、 不都合は見ないよう慣れ合っていく。現行の地域包括ケアシステム下においては さほど珍しくない現象と割り切るしかない現実が実際にある。  
国家財政逼迫が叫ばれ、高齢者の社会保障費増額など既に限界との論調がはびこる中、 私も含め、頼れる家族や支援者を持てないまま老後を迎える人達が今後も増え続ける。 現体制のまま、そんな老人が要介護認定という現実を突き付けられ、その時になって 置かれた悲観的現実に慌ててみても、もはや後の祭りということにしかならない。   老いさらばえ何もかもが不自由となり、何かを訴えてもどうせ聞き届けられないと、 封じ込められ切り捨てられてはいないか。人としての権利と尊厳は守られているか。 仕事の効率や採算などに捕らわれず監督する「福祉公務員」必要性が今の制度から 抜け落ちていることを、その現実があっても見て見ぬふりをしているということを、 もっと直視する必要があるのではないか。   あの時、相談員から諭された「早く忘れて、生活を立て直すべき」そんな諦めの言葉、 理不尽さ虚しさだけが残された。その様なことも含め、橋折ることなく少しずつでも、 この回想録に記していこうと、今改め思い直しているところである。        ラ・フランスざらついている者同士   

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不法行為と債務不履行2 (Tue, 21 Mar 2017)
自分が通念としてきた道徳観や善悪の基準と、実際の法律の解釈はまた別物。 日を改めての法律相談、そのことを、つくづくと思い知らされることになる。   相手の不注意により障害を負わされたとする(不法行為)の立証が困難でも、 契約を正しく履行しない(債務不履行)に絞れば、示せる根拠は何なりある。 その事実経過を説明できれば、契約解除の無効にも道筋をつけていけるはず。
と、私は考えていた。だが、それすらも「難しい」と弁護士は言うのだ。   「全く非はない」と先方が宣言し、こちらが「それは受け入れられない」と反論した以上、 先方にとって私達は「不信」な存在。信頼を前提にしての契約関係が維持できなくなった。 そのロジックについては、法的に成り立っているのだと。   私達が苦情を申し立てた必然性も以降の経緯も、関連を切り離して考えなければならない。 どう角度を変えたところで必要なことは「全く非はない」を覆す医学的見地に基づく立証。 結局はこの問題、医学的立証なくして、相手を交渉の席に着かせることはできない、と…。  
   「私なら、この材料で戦おうとは思わない」弁護士の立場から見ると、そういうことらしい。  「あなたがこの立場であっても、そう言って諦めるか?」そう問い返す私に対し、弁護士は 「勝つ見通しを持てない弁護士と裁判を戦っても、意味のある結果にはならない」と答える。   挙句「そもそもにおいて」と話も戻されてしまうのだが、 債務不履行だけに争点を絞り、たとえ勝訴したとして、どれ程の賠償を期待できるのか。 契約解除の無効が叶えば、このデイセンターへの通所を本当に再開させるつもりなのか。 採算も勝敗も度外視し、後腐れを残さない終焉の有り方として、裁判所で訴えることに 固執しているのなら、別に弁護士などに代理を頼まずとも一人で好きにやればよかろう。 結論はそういうことのようだ。   『その裁判所はこの法律事務所とは、目と鼻の先にあるのだが…』考えてはみるものの、 意識はそこには集中しない。むしろ『何をしたところで、形勢を変えることはできない』 そんな敗北感のみが、私を強く支配していた。   このトラブルに見舞われ、もうじき丸一年になる。この問題に支配し続けられてきた一年だった。 『決定的に判断・対応を間違えた』と、刻印されていることがある。言い出せばきりがない。が、 ケアマネ(居宅)・包括・その他の相談窓口、そして弁護士。これら社会に揃えられた<駒>を どれ一つ有効に機能させることができずにいる。そんな己の無力さ無能さが、ただ恨めしかった。        義仲よ このジャケットは軽すぎて  

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不法行為と債務不履行1 (Wed, 21 Dec 2016)
「母の体調は二日前の体験利用と比べ、格段変わった様子はなかった、故に自分に全く非はない」 当事者である前センター長は代理人を介し、こう見解を翻した。それを受け前回の法律相談では、 終始、医学的な立証の困難さについての講釈を聞かされることになり、あえなく相談は終了した。   約半年経ち、改めての相談とは言っても、何か目新しい立証材料が確保できている訳ではない。 今回は前センター長のこれまでの発言の整合性により照準を絞り、母に施した処置についての 相談を展開する。裁判所というもの、状況を鑑みての判断ということは絶対にあり得ないのか、 燻り続けるわだかりに、先ずはケリをつけてしまいたい。   法テラスでの相談時間は一回30分の制約。だが、これはデイセンター側の過失による傷害 (不法行為)を立証し、損害賠償を勝ち取るという話。相談は1時間の予約で取られている。 私は母の既往歴もそこそこに、文書類を提示しながら、デイセンターの対応に重点を置いて、 時系列に話を進める。そして、その内容をそのまま、この事業所が契約を正しく履行しない (債務不履行)業者との訴えにも繋げていくのだ。    
  一通りの事情説明に、30分を使い切ることになった。それに対し、弁護士は質問を返してくる。 どの医者からどんな診断書が確保できているのか、更にどんな所見を追加する必要があるのか…。  拒否したままになっている医療調査を同意した上で、事態を前進させるための方策を考えていく。 母の通院に関しての質問が続き、気付けば、相談は前回を再現するかのような展開になっていた。 つまりは、こうしたケース、医学的な立証なしに裁判所が被告側の過失を認めた判例などはない。 前回同様、それが弁護士としての見識ということのようだ。   弁護士はセンターからの最初の通知書に膝関節症等、母の既往歴の記載があることも付け加え、 「原因は前センター長の処置以外にも考えられる」と、主張されることを前提に意見を続ける。 「原因は前センター長の処置以外には有り得ない」と、反論するのに必要なの物は、最終的に 診療記録と診断書。処置を受けてから受診までの時間が空きすぎていることが、何と言っても 致命的だと。   「母の体調は二日前の体験利用と比べ、格段変わった様子はなかった、故に自分に全く非はない」 たとえ他の発言が矛盾だらけでも、相手がこの一点さえ崩さなければ、こちらは医学的な立証を 求められる。相手の人格が不誠実だから過失も犯した、とはならない。不法行為で相手を訴える 場合の被害者に求められる立証責任とはそういったものだと。   かけがえのない命や健康がぞんざいに扱われた。医療裁判の勝訴率がどれだけ低かろうと その無念を訴える場所が裁判しか残されていないのなら、勝つのは難しいと承知の上でも 訴訟を起こすのが家族というもの。使える手段は全て使い切ってからでないと、再び前を 向くことが出来ないのだ。   しかし、今回は「負け」を覚悟の医療過誤の相談のためだけに出向いてきた訳ではない。 「これに関する相談が、もう一つある」と私は次の予約をとり、この日の相談を終えた。        ことごとく夏樹をめぐりゆく蝶か    

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法テラス法律相談 (Mon, 21 Nov 2016)
二回目の成績法律相談、前回は医療事故についてのみの相談に終始したが、 今回は「不当な契約解除を無効に出来るか」との内容が相談の中心となる。 経緯説明の手間を考えると、再び前回相談の弁護士を訪ねるのが妥当だが、 どうせなら、別の弁護士からも医療事故の意見を聞き直してみたいと思い、 この際はと、前回とは別の法律事務所に相談の予約をとった。   平成24年、母がパーキンソン病の疑いありと診断を受け、治療が始まる。その年12月、 右足肉離れで身動きが取れなくなったことを機に、在宅介護が始まるのだが、26年8月、 失職状態は変わらずに続いており、今回の法律相談は<法テラス>を利用することにした。    <法テラス>は経済的な理由で弁護士などへの法律相談が困難な人を対象に国が設けた無料の 法律相談ができる制度で、無料法律相談は市役所の市民相談室へ出向いての相談と弁護士会が 主催する電話相談を既に経験済みだ。   この市民相談室と弁護士会の相談に利用回数の制限はないようだが、相談時間には制限があり、 相談者側から希望の弁護士を指名したりはできず、最初の相談で時間切れとなれば、次はまた、 最初から事情を説明し直す必要がある。    
  <法テラス>法律相談の時間制限は30分。利用可能な事務所で収入や預貯金の状況を申告し、 受け付けられれば、同一案件で三度までの利用が可能。前回と同様、県の弁護士会の一覧から 問い合わせ、医療事案の取り扱いに確実な経験があると、確認がとれた事務所に予約を入れた。   午前中は母の介助に手を取られるため、外出は専ら午後からとなる。相談も午後一番の予約。 カッと太陽が照りつけ、歩き出した途端、どっと汗が噴き出してくる正に盛夏といった日和、
市の中心部、県庁街のこじんまりとした7階築オフィスビルのフロアを借り切った事務所は、 前回相談の事務所からも近く、外目こそ似ていたが、事務所内の様相は幾分違った感だった。   前回は受け付けを済ませると、内装やテーブル、椅子と落ち着いた色で統一された相談室に 通され弁護士を待ったが、今回は廊下の一隅にソファーと小さなテーブルが置かれた簡易の 待合所での待機となった。待合所には新聞やら広報誌やらが雑然と置かれていて、通された 窮屈な相談室も切り抜きの記事などが無秩序に貼ってある。   事務所のホームページには所属弁護士の生年月日、経歴や活動の記録、仕事に取り組む姿勢など、 色々と載せてある。相談を受け持つ男性弁護士は年齢60位ということだったが、実際に会うと、 絞れた中背の体躯で、載せられていた写真より若い印象だった。   ネクタイを外したワイシャツ姿、挨拶の前に一息ついた仕草。緻密なスケジュールを刻みながら、 いかにも精力的に仕事を熟しているといった雰囲気。職を離れ、無料の法律相談に駆け込むのに、 あれこれ思案しながら、ここまで来た自分と、この弁護士は全てにおいて対極の場所に居るのだ。 デーブルを挟んだ弁護士と正対し、そんなことを考えながら、この件で4度目となる法律相談が 始まっていった。         くるくるとわれは白紙の星祭     かんたん解説「法テラス」| 日本司法支援センター

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